「萩原朔太郎と能」

群馬地域学研究所 代表理事


一九三三年 (昭和八) 四月、 萩原朔太郎 は、観世定期能(五月)の申し込みをしたところ、観世左近宗家から追善能の案内を受けたため、定期能を止めて追善能を観ることにした。観能へは郷里・前橋にいた妹・津久井幸子を誘った。同封した番組の「蝉丸」 「定家」 「卒都婆小町」の曲目には○印をつけて、 能の傑作だから、ぜひ汽車の時間の都合をつけるよう書き添えた。朔太郎が はじめて能を見たのは一年半前の三一年(昭和六)十一月のことで、歌人・中原綾子に案内されてのことであった。 朔太郎は45歳になっていたが、それから 四二年(昭和一七)に56歳で亡くなるまで、 十年余りの能楽愛好時代が続いた。


朔太郎は観能に中野重治・丸山薫・伊 藤信吉らの若い詩人たちも誘った。 入場券や番組を同封して郵送し、「能見物の時は、洋服または羽織袴(着流しは禁止です)」と付記した。朔太郎自らは「袴を着けた和服姿」で現れた。朔太郎の観能は、流儀を問わず、 能理解の参考になるとの理由から素人会まで足を運んだ。


朔太郎によれば、能は「もののあはれの極美」であった。それは、平安時代の「もののあはれ」が「足利将軍の武家精神によって男性的に文化ナイズされ創造されたものであった。朔太郎 は、一九三九年(昭和一四) 十二月に「能と室町幕府」(『謡曲界』)、翌年四月には 「能と戦国武士」(『ホーム・ライフ』)をそれぞれ発表した。


朔太郎がはじめて能を観た年には満州事変が勃発した。事変をきっかけとするナショナリズムの高揚は、あらゆる分野に衝撃を与えた。自由・民主主義的な思想・学問への弾圧事件も次々に起こり、官憲の干渉は能楽の世界にも及んだ。「船弁慶」「蝉丸」「大原御幸」 などの曲目が「不敬呼ばわり」される事態が起こった。 朔太郎は一九三七年(昭和一二)九月「歴史教育への一抗議」(『無からの抗争』)、三九年八月「能の上演禁止について」 (『新日本』)を発表し、 「いささか杓子定規の役人思想が、世話の行きすぎをしたかとも考へられる。 すべ ての物事は、法律的の言語概念で考へないで、深くその物の本質とする精神から考へるのが大切である」と、偏狭な日本主義にもとづく文化政策に抗議した。 軍国主義の前に文化人が腰砕けになった時代に朔太郎はひとりで戦った。近年、伊藤信吉氏は朔太郎の態度を「文化的自由主義」と呼び、高く評価している(『黒い鐘楼の下で』)。


子どもの頃から「極端な西洋好き」 で「ハイカラ趣味」、青年時代に日本脱出を夢み、「芸術上ではポーに多く、情操上にはドストエフスキーに、思想上にはニイチエに深く影響されて」自己形成し、宇野千代をまねて妻に洋装・ 断髪させダンスを習わせた朔太郎と能 との関係は、モダニズム的な私生活の 破綻(離婚)や日本回帰、昭和精神史とかかわって、朔太郎研究では重要なテ ーマのひとつであるが、本格的な研究はこれからである。




「ブルーノ・タウトと能」

手島仁(群馬県立歴史博物館主幹)


ブルーノタウト(1880~1938)は、第一次世界大戦後のドイツで盛んであった表現主義建築運動を代表する建築家で、集合住宅と都市計画の世界的権威であった。ヒトラーが首相に就任すると、タウトは親ソ連派と誤解され、身に迫る危険を知り、国外逃亡をはかった。

ちょうど、日本インターナショナル建築協会から招聘を受けていたので、日本へ向かった。タウトの日本滞在は、昭和8年5月から11年10月までの三年半に及んだ。京都・仙台を経て、群馬県高崎市郊外にある小林山達磨寺の「洗心亭」という茶室が、タウトとエリカ婦人の住まいとなった。」

タウトの業績は、『ニッポン』『日本文化私観』『日本の美の再発見』などの著作を通して、伊勢神宮や桂離宮などの日本古来の建築を好意的に評価したことが知られているが、これらはみな高崎で執筆されたものであった。タウトは国立工芸所顧問・大倉陶園顧問に就任するが、何れも短期間で辞め、高崎の実業家・井上房一郎の経営する井上工房顧問と群馬県工芸所(県工業試験場)の嘱託となった。タウトのデザインが県工業試験場で試作され、高崎周辺の町や村の無名の手工業者によって工芸作品として生産され、それらの製品は井上の経営する東京銀座のミラテスという店に並べられ、多くの人の手に渡った。

タウトは日本滞在中に六回、能楽を鑑賞した。年代順に示すと次の通りであった。

(1)昭和8年5月、京都・金剛能楽堂、「竹生島」「隅田川」、狂言「磁石」。
(2)昭和9年4月、京都・金剛能楽堂、「船弁慶」「三山」「自然居士」、狂言「伯母が酒」。
(3)同5月、京都金剛能楽堂。
(4)同5月、東京赤坂・能楽囃子科協議会主催、「船弁慶」「熊野」、狂言「悪太郎」。
(5)同11月、京都・金剛能楽堂、「柏崎」「紅葉狩」、狂言「附子」。
(6)昭和10年3月、東京・宝生能楽堂、「安宅」「道成寺」。

タウトは、日本滞在中に克明な日記をつけた。日記は戦後になって、篠田英雄訳で岩波書店から出版された。篠田がその「あとがき」で、「私がタウトに初めて会ったのは、1934年5月に赤坂能楽堂で能を観た時であった。(中略)彼は、今度が三度目の観能だというのに、静かな感動をたたえて、いかにも楽しげに演技に見入っていた。とりわけ熊野と静の舞には心を惹かれた様子だった。船弁慶の中入後の笛にじっと耳を傾けている横顔にも感激の色が見えた。私は、これでは自分よりもよほどよく能の判る人だと思った」と述べているように、ドイツ人であるタウトの能理解には驚くべきものがあった。

タウトの日記には、六回にわたる観能の感想も述べられている。二回目の観能で、「能は、私にとって大きな眼福」と高く評価し、四回目の観能で、「能は、一種の楽劇であるが、しかし極めて厳粛な様式を具えている。恐らく日本以外にはどこにも見出せない芸術であろう」と述べ、六回目には、「『道成寺』は、これまで観た能のうちで最も壮麗なものだ。(中略)この舞は、芸術的手段の極度の圧縮だ。実に讃嘆すべき芸術だ。これが日本なのだ、最も単純なものの中に一切がある。見所では咳ひとつ聞こえない。また身じろぎする人もない。私自身もひたすら見かつ聞くだけであった」という。

タウトは昭和11年トルコ政府からイスタンブール芸術大学建築科主任教授として招かれ日本を去った。大統領の信任が厚く、国会議事堂はじめ多くの公共施設の設計を担当したが、過労が重なり、1938年(昭和13年)12月に病死した。エリカ婦人はデスマスクを小林山達磨寺に納めるために、昭和14年9月に来日した。日本の知友によって洗心亭の傍らに記念碑が建てられた。碑文(表)にはドイツ語で「私は日本文化を愛する」と刻まれた。ブルーノ・タウトは、能を世界的まレベルで評価し、愛した紳士であった。

(平成14年発行「観世会能スケジュール」より)